砂嵐の中で

台風が去ってから、昼は雲も空も清々しく、蒸し暑さも引き、夜は風が気持ちよくて、虫の音がきれいな日が続いています。

読書の秋、食欲の秋・・・

本も食べものも好きな僕には一番良い季節です。

 

望んでいた季節の訪れとは裏腹に、想い通りにならないことも多いです。

ブランク・・・と言ってしまったらとても言い訳臭くなってしまうけど、

取り戻せないものに対してもどかしさを隠せません。

 

「目指す復興は、元に戻る事じゃなくて、前以上になることだ」

 

2011年にこの言葉を聞いた当時はとても力強く感じたけど、

元に戻る事すら遠く感じる今の自分を思うと、少し残酷に響きます。

 

今日はとても嫌な夢を見ました。

ここ数ヶ月はうまく逃れていたものに、また追いつかれてしまってきているような気がします。

追いつかれてしまうのは、自分が進むスピードを緩めているからだと、

自分を責めてみても、スピードを上げる力がまだわいてこない。

「引き離す」とか「追いつかれる」とかいう考え方自体を変えなきゃいけないかもしれませんね。

 

“それ”は、消えることはなく、置き去りにすることもできず、自分の中に留まり続ける。

 

そう考えていた方が気持ちは楽かもしれない。

あり続けるものとの付き合い方を学んだり、影響を弱める受け流し方を学んだり、

そっちの方がとても現実的に思えて。

 

台風のように、完全に去ってしまい、きれいな青空だけが残るようなことはない。

それでいて、台風のように何度でもやってくる。

 

村上春樹の作品『海辺のカフカ』の冒頭で、とても印象的なシーンがあります。

日本語で読む前、いつかの英語の授業で見かけた時から脳裏に焼きついているシーン。

 

ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。

 

 

君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると砂嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。

 

繰りかえされるのは、“それ”が引き離したり置き去りにできたりする類いのものではないから。

 

なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。

 

“それ”は、僕と言う主体が他動詞でコントロールできる客体ではなく、

むしろ主体そのものと同化している。

 

だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏みいれ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。

 

完全に避けて通ることはもはやできない。

避けることあきらめるのは、逃げの姿勢からくる投げやりではなく、むしろど真ん中を突き進む覚悟。

「置き去りにする」「引き離す」「追いつかれる」という言葉を使っていた時点で、

僕はその覚悟をまだ持てていなかったのかもしれないです。

 

 

 

逃れることのできない砂嵐の中を進むための力は、どこからわいてくるのか。

 

 

 

ある種の人間にとっては、「自分のこと」を考える時間はとても疲れることです。

たびたび訪れる砂嵐は、すなわち自分自身との対峙。

そんな中で、それ以上に自分のことばかり考えることは、
砂嵐の真ん中に留まり、風力で掘られたあり地獄のような穴の中へその身を埋めていくようなもの。

自分の成長、自分の利益、自分の幸福・・・

自分にばかり目を向けているうちは、砂嵐はやまなくて、むしろどんどん強まっていく。

 

目の向け先が「自分」である以上砂嵐を通り抜けることができないのであれば、

通り抜ける力の在処は、自ずと見えてくるはず。

 

「この人のためになりたい」

 

そう思える人に全力を尽くす。

今はそれだけを考えていたい。

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