『悼む人』 ~死生観と、「悼む」と「痛む」の違いについて~

今日は本の紹介です↓

 

 

 

『悼む人』著:天童荒太、文藝春秋

 

 

第140回直木賞受賞作です。

 

 

 

日本中の「死」を訪問し、死者を「悼む(いたむ)」旅を続ける主人公坂築静人(さかつきしずと)。

 

事件の残酷な描写を得意とする雑誌記者、蒔野抗太郎(まきのこうたろう)。

ガンにより余命宣告を受ける静人の母、坂築巡子(さかつきじゅんこ)。

ある理由により夫を殺し、とりつかれてしまった、奈義倖世(なぎゆきよ)。

 

三人の視点から描かれたそれぞれの客観的な静人像が、一つの物語に収束していきます。

 

静人は見ず知らずの人の死に対して、独自の「悼み」を行います。

それは、死者に関する3つのことを周囲から聞き出し、

それを胸に刻み「覚える」ということ。

 

◎その人は、誰に愛されていたか

◎その人は、誰を愛していたか

◎その人は、どんなことをして人に感謝されたか

 

 

 

考えさせられるのは、静人は「悼む相手」を選ばないということ。

自然死であっても、殺人であっても、事故死であっても・・・

死因は関係ありません。

善人であっても、老人であっても、極悪人であっても・・・

人を選びません。

そこに「悼む」ことのできる死があれば、全て「悼み」ます。

 

これって、なんでできると思いますか?

 

1人の死を受け入れることだけで人は精一杯。

そもそも、受け入れることなんてできるのか。

それでも静人が多くの人の死を悼み続けることができる理由は、

ある意味「感情移入しない」からなんです。

静人のこんなセリフがあります↓

 

殺人事件や、酔っぱらい運転などの悪質な交通犯罪には、

感情的にもなります。

でも怒りや悔しさをつのらせていくと、

亡くなった人ではなく、

事件や事故という出来事のほうを、

犯人のほうを、

より覚えてしまうことに気がついたんです。

たとえば、亡くなった子どもの名前より、

その子を手にかけた犯人の名前のほうが先に浮かぶ、

というようなことです。

亡くなった人の人生の本質は、死に方ではなくて、

誰を愛し、誰に愛され、何をして人に感謝されたかにあるのではないかと、

亡くなった人々を訪ね歩くうちに、気づかされたんです。

 

静人自身も旅の始めは苦しむんです。

多くの死に感情移入してしまうことで、

死にとりつかれたような状況に陥ります。

旅を続けていく中で彼があみ出した「悼み方」が、

死の悲惨さに胸を痛めるのではなく、

上記の3つを胸に刻む方法だったんです。

 

これを読んでて思ったのが、

「悼む(いたむ)」と「痛む(いたむ)」は違う

ということです。

 

「痛む時の目の向けどころ、

それはたぶん、悲惨な事故そのものや犯人への憎しみ、

もっと言うと、

そういうものに苦しんだり悲しんだりしている自分に向いてしまっているんじゃないかと。

本当に死者への想いを、その人への愛情や感謝を胸に刻もうとする時、

心は大切な相手に向いて、「悼む」ことができるのかもしれない。

 

といっても、簡単ではないと思ってます。

「痛み」は最初の時点で必ず通過しなければいけない地点で、

すぐに消え去るものでもないと思います。

悼みながら、痛みも伴い続けるかもしれない。

 

 

 

・・・

 

 

 

死生観なんて、一朝一夕、一聴一読で悟れるもんじゃないですよね。

でも、考え続けることは大切だと思ったので、

暫定的な頭の中ですが書き出してみました。

 

一つ言えるのは、

「全ての死は、どこかの誰かにとってものすごく特別な人のもの」

ということです。

 

そう、特別な人です……

普通の主婦なんていません、

一般市民という人間もいません……

特別な人が死んでいます、

特別な人が殺されています。

 

全ての死が特別ということは、

裏を返せば全ての死が平等ということかもしれません。

 

まだ子どもなのにどうして、とか……

小さな子どもがたくさんいるのに、とか……

そして、感情を揺さぶられるような際立った事情のない死者を、

いつのまにか差別とは言わないまでも、

区別しそうになっているんです。

 

でも、この無差別感こそが、

生者の精神を苦しませるんだとも思います。

 

或る人を悼んでおきながら、

じゃあ次の人は悼まなくてもいいのかという、

強迫的なな想いにつき動かされていたんです。

家族から、死にとりつかれているようだと言われましたが、

そうかもしれないと思いました。

投げ出そうとしたことは何度もあります。

でも、本当にいいのか、

この死者を、あの死者を、

忘れて生きていけるのかと、

ささやきかけてくる声があり、

胸苦しさに眠ることもできません。

 

みんなを特別に想う気持ちと、

精神の限界とのバランス、

それがどこにあるのかは知りません。

 

でも人間には、

その精神の限界に達しないためのリミッターが備わっていると思います。

 

食えるか食えないかの問題としてしか扱われない、動物の放射能汚染。

その人の生死への心配よりも遅延の苛立ちにしかならない、人身事故。

大きな数字に惑わされて「ひとつずつの死」を想像できなくさせる、大量虐殺。

 

きっとこれら全てに心を痛めることは、人間のキャパ的にできなくて、

防衛本能というか、そういうものが心を麻痺させてくれているんじゃないか。

全て感知してしまったら壊れてしまうから。

 

麻痺自体を咎めることも、解き放つこともできないかもしれない。

それでも忘れてはいけないのは、

そこにある「死」は麻痺した自分の心は打たずとも、

どこかの誰かにとってものすごく特別な存在の喪失だった、ということ。

どんなに麻痺しても、そのことだけは決して忘れずにいたいです。

 

「1人の死」は「その人1人」の中では完結せず、

その人に関わった多くの人たちに大きな影響を及ぼします。

逆に言えば、

「1人の生」も「その人1人」の中には完結せず、

その人に関わる多くの人たちに大きな影響を及ぼします。

 

生きても死んでも、「1」が「1」で完結することはないんです。

 

半人前とか言うけれど、

「1人」には「1人分」以上の価値があります。

「何十年に一度の逸材」とか言うけれど、

全ての人が「宇宙史上一度しか生まれてこない逸材」です。

 

そういうことを、ずっと心の中に留めておきたいです。

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